ゆうべ、本好き友達三人とひさしぶりに集まって夕食をともにしました。
一人がこのところ、人生初の体験である句会に凝って、どれだけ楽しい時間を過ごしているかをめんめんと語り出しました。投句の方法や評価されたときの嬉しい気持ち。他の人達の句の背景を知って感心する気持ち。話す様子から、彼と仲間たちの充実ぶりがよく伝わりました。句会の衰えない人気の秘密も理解できるというものです。
友達の楽しい話をきいて聞き手の二人は、じゃあこんどは、吟行も企画したらたのしいね、などと言って祝福しつつも、やがて句集を出したくなるのでしょう、とすぐに行く末を連想しました。わたしも「古本屋としても句集はねえ」と、「ねえ」で止めるコメント。古本として入荷の山に存在するならば、仕事ですから市場での扱いをかんがみて、適切と判断した対応をとることができます。しかし個人的にもらった場合はどうしましょう。いただいて楽しんだのももちろんあります、が。ここも「が」で止めましょう。
詩集はかなり好きです。一冊ひといきに読み通すと胃もたれするので、辞書のようにときどきぱっと開いて、出てきたページを読んだり、あちこち読んでよく噛むほうが、体質には合っています。
しかし句集は……。一句の中に、ある世界が凝縮されています。仮に単なる数だけ問題にしても、句は一行ですから収録数はどうしたって詩集より多くなります。だいたい複数をいちどきに受け取ることすら、しんどいわけです。見開きに四句だって多いのに、六句、十句はきついでしょう。一句はいっぱいのお茶のようなものですから、せいぜい二、三杯でよいとおもいます。まじめに読もうとするほどに、そういう気分になるのです。
「そもそも句に本という形態が合っていないのではないか」というのがそのとき思いついたわたしの意見でした。勢いにまかせて「だからせいぜい、日めくりくらいのアレンジがあってもいいと思うんですよね」
「ひ、ひめくり?」
「一日一句?」
「格言みたいに?」
「トイレにかざる?」
「相田みつを風?」
ビッグネームの連想にまで至り、句会の本人もワクワクモードです。その流れであらためて句集の未来について考え始めました。そうしたら、もっとよいことを思いつきましたよ。それはメモ帳出版です。
「やっぱりメモ帳にして。斜めにおける固定のボールペン付きでおねがい。それなら電話の脇に置くし。相手の待ち時間に一句読めるからちょうどいい。端に句がひとつ入っていて、あとはメモ欄。一枚一句ね」
我ながらナイスアイデアです。「これならもらってもいいです」
「紙の下の方に、句会の会場の店名と電話番号いれてもオッケー。これでスポンサーもとれましたね。どうしても、ということであれば紙全面に透かし模様で似顔絵をいれても構わないし」
親切アイデアも付加しました。
でも反応からすると、こちらのアイデアはむしろ負荷だったようです。
負荷?
負荷といえば、メモ帳出版なら本のようにあとあと形に残らないところも、受け手側の負荷低減に役立つではないですか!大発見。
メモ帳として機能を果たして役に立ち、しかもいつのまにかさりげなく消えてゆきます。いっぽう大好きになった一句については、冷蔵庫に磁石で貼ってもヨシ、額装してもヨシ、お友達への手紙に同封してもヨシ。すばらしい。これは書籍というスタイルでは真似できない利点です。
全国の印刷屋さんに版元さん、これからは「句集メモ帳」という新分野をお客様にお勧めしてみてはいかがでしょうか。
アイデアは妄想となり、さらに暴走となり、そして夜は更けてゆきました。